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九州産直クラブ 社長のblog

九州産直クラブ社長 吉田登志夫の公式ブログです。九州産直クラブの商品や生産者、九州の野菜、肉、魚などの内容や、イギリスのオーガニック市場、フェアトレードなど、様々な情報をお届けします。

森政則(ジロー)シェフ追悼

祭壇の森ジロー

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通夜に集まった同窓生。「いまから一人ずついなくなるから、いまのうちにみんなで写真をとるぞ」と言って撮った写真。

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オーガニック九州産直クラブ社長の吉田登志夫です。

10月24日、那珂川キッチンの前料理長の森ジロー氏がなくなりました。

10月24日(金)午後7時、森君とジェイネットで会いました。オーガニックハウス夢広場のセールで土曜、日曜と走る豚肉まんの店頭販売を森君にしてもらうので、その打ち合わせをする予定でした。その時、「3時頃心臓が痛くなった。汗も出た。救急車を呼ぼうかと思ったけど、寝ていたら治るだろうと寝ていたら収まった。」と森君が言ったので、「ばか!そげな時は救急車を呼ばんか」と僕は言いました。そうこうしていると、座り込んでしまい、「ちょっときつい」と言うので、すぐにかかりつけの病院に連れて行きました。今年はじめに軽い脳梗塞をしていたので、「これはやばい」と感じました。病院で診察をして、当然入院するものと思っていたら、「今日は帰っていい。また明日朝に来るように、」と言われ、で、駐車場の車に戻り、発車しようとしたら、「トシオ・・・」と言ったまま、倒れてしまいました。病院のスタッフがかけつけ、救急処置をしましたが、すぐにあっけなく逝ってしまいました、62才。

以下、27日葬儀での弔辞です。

<弔辞>

森政則-僕たちの間ではジローと呼ばれていた。後輩などから「どうしてジローさんなんですか?」と聞かれた時は「奥村チヨの『ごめんねジロー』という歌からきたんだよ」と答えていた。今日は、ジローと呼ばせてもらおう。

僕たちがジローと出会ったのは福岡商業高校だった。福商は女7対男3という、男子生徒にとっては天国みたいな学校、その中で僕たちはクラブ活動をすることと女の子と遊ぶことのためにせっせと学校へ通っていた。ジローは応援団、僕は卓球部、他にもサッカー部、バレー部、剣道部、野球部、テニス部、陸上部、バスケット部・・・、福商はとにかく体育会が強かった。僕たちは出会ってすぐに意気投合し、クラブの練習に没頭し、体力を極限まで酷使し、そのわずかな残りのエネルギーを絞って女の子を追っかけていた。高校3年の夏の最後のインターハイでは、ジローは団長として応援団を引き連れて来てくれて、「トシオ、黒田に勝てよ」と応援してくれた。その頃の福岡の卓球界は全国でも強くて、博多高校の一級下に黒田と言う全日本ジュニアチャンピョンがいて、僕はどうしてもそいつに勝てなかった。その日も負けてしまい、それからこの年まで45年間、飲むと「負けたね」とその試合のことを言われ続けた。

福商を卒業し、ジローは八仙閣に入って、厳しい中華料理人の修行をした。そこで最愛のみどりさんと出会い、結婚し、二人の愛の巣は毎日、みんなの酒飲みの場となった。ジローはみんなと飲んで賑やかに騒ぐのが大好きで、みどりさんは大変だったろう。その頃、僕は時代の風に吹かれて政治活動に埋没しており、東京の成田空港反対闘争へ行く交通費がなく、ジローに「金ないや」と言うと「わかった」といって大事にしていたエレキギターを質屋に入れて金をつくり、「頑張ってきやい」と言って渡してくれた。そのエレキギターはそのまま質で流れた。ジローはやさしい奴だった。

ジローは八仙閣でコック修行を勤め上げ、思うところあって転出し、いくつかの中華店を経て住吉で「ポン」という店を持った。いつも飲みに来る友人達を暖かく受け入れてくれていた。みどりさんは八仙閣の仕事が終わってから、毎晩、店を楽しそうに手伝っていた。福岡で飲酒運転の取り締まりが厳しくなり、ジローは店をたたんだ。丁度、そのころ、うちの会社では惣菜工場をつくったが、プロの料理人がいずに困っていた。ジローに来てもらった。福商のみんなは「吉田がジローの面倒を見ている」と思っている奴が多いが、じつは僕が助けられていた。僕はジローがうちのキッチンに来てくれて、本当に助かった。ジローはいろんなレシピの中華総菜を開発してくれた。ジローがつくった「走る豚の肉まん」はロングベストセラーだ。イギリスのロンドンでは日本食品店を2店舗やっているが、日本のお弁当や惣菜が人気。そのロンドンの店にもジローは昨年の今頃、一カ月ほど料理指導に行ってくれた。ロンドンには福商の若い後輩3人が働いているが、そいつらに麻婆豆腐、エビチリや中華丼などのつくりかたを毎日指導してくれ、夜はパブや中華街で飲んでいた。楽しい思い出。

3年前の忘年会ー八仙閣でたいがい飲んで、2次会と称してディサービスみどりのステーションの忘年会になだれ込んだ。環境保護運動をしているみどりの党の若い活動家なども集まっていたが、「俺たちの時代の歌を聞かしてやろう」と岡林信康の「友よ」を2人で肩を組んで歌った。「夜明けは近い、夜明けは近い・・・」、酔って大声で歌った。あの時代の、あの気分を想いだし、「今度は天神で反原発フォークゲリラ」をやろうなどと話した。

去年の12月はみどりさんがケーキを買って二人の誕生会をしてくれた。僕もジローも12月生まれ、ケーキの誕生会なんて生まれてはじめてで照れ臭かった。

ジローが逝ってしまって、淋しくなるが、それは順番の問題。昨日の通夜も沢山の同級生が集まった。不謹慎かもしれないが、ジローはみんなに送ってもらって、幸せ者かもしれない。通夜の後、葬儀場の近くの飲み屋で同級生で通夜をした。淋しがり屋だったジローは、みんなににぎやかに送られてうれしかったと思う。

ジローのお母さん、2番目のお兄さんも先に向こう側に逝かれている。テニス部の関や剣道部のシンゴローも向こうに行っている。向こう側もそれはそれで楽しいかもしれない。

俺たちも順番にぼちぼち行くので酒と料理を準備して、待っといてくれ。

楽しい時間をくれてありがとう、ジロー。