九州産直クラブ 社長のblog

九州産直クラブ社長 吉田登志夫の公式ブログです。九州産直クラブの商品や生産者、九州の野菜、肉、魚などの内容や、イギリスのオーガニック市場、フェアトレードなど、様々な情報をお届けします。

en塾公演 インドネシア研修生 

フィナーレ「桜よ!」の合唱          f:id:sancyoku:20150407210920j:plain長浜ラーメンを食べるビマさん(左)とバガスさん

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オーガニック九州産直クラブ社長の吉田登志夫です。

4月7日、那珂川キッチンでの業務が終わったインドネシアからの研修生のビマさん(21)、バガスさん(18)と一緒に「インドネシア大学生による日本語ミュージカル劇団en塾」の福岡公演を観に行きました。インドネシアで事業を展開しているP&R社長の小谷さんのご紹介によるものです。en塾はインドネシア首都ジャカルタで日本語を勉強する若者たちが日本語を使って芝居をする劇団で、インドネシアの日本語学習者数は世界で5番目、「en(縁)あってめぐり会った学生たちが、年に1回の日本公演という目標を目指してen(円)となり、半熟からen塾(円熟)を目指す」という理念だそうです。演劇の題は「Back to The 戦国!」で織田信長とインドネシアからの留学生がタイムトンネルを通じて交流するというもので、「桜よ、大好きな日本へ」という歌が柱になって構成されています。この歌は東日本大震災のときにen塾によって創作され、日本各所で歌われて感動をよんでいるそうです。アジアの方から応援されるというシチュエ―ションに直面したことがない私は、「桜よ 咲き誇れ 日本の真ん中で咲き誇れ。日本よ 咲き誇れ 世界の真ん中で咲き誇れ。」と謳われた時はなにかしっくりきませんでしたが、「私よ 咲き誇れ この道の真ん中で咲き誇れ」という詩で歌が〆られてなぜかホッとしました。「日本」より、「私」が主語になるほうが好きですね。その「桜よ」の歌に続いてのエンディングが「インドネシア独立を祝う歌」でした。「顔を上げて、自身をもって進もう」という希望に満ちた歌で、ビマさんもバガスさんも一緒に大きな声をあげて歌っていました。誰もが知っている有名な歌と言うことでした。その歌の紹介で「今年8月はインドネシアの独立から70年になります」との紹介があり、ハッとしました。

そうでした、日本軍は1942年にインドネシアに侵攻して占領下に置き、日本の敗戦で同時にインドネシアは独立しました。多くのアジアの国々がそうであるのと同様です。調べてみたらインドネシアの中学歴史教科書にはキチンと日本とインドネシアの歴史が書かれていました。「インドネシアにおける日本の占領は短期間にもかかわらず非常に深い痕跡を残した。第二次世界大戦、とりわけ太平洋戦争の勃発はインドネシアに変化をもたらした。オランダの支配が終わり、インドネシアでは日本の支配が始まった。日本の進駐は苦しみをもたらしたが、インドネシアへ次第に独立の機会を開いた。日本では明治期に大規模な改革が行われた。結果として、日本は西洋諸国と肩を並べる近代産業国家となった。この改革は明治維新と呼ばれ、鎖国から帝国主義へと日本の政治指針にも変化をもたらした。この運動は日本指導下のアジア地域において兄弟意識を高めるために日本(Nippon)によって喧伝された。『八紘一宇(Hakko-ichi-u)』という帝国主義政策に基づき、日本は自らの指導下でアジア地域の統一を目指していた。アジア地域の一国として、インドネシアも日本占領の標的となった。日本は自らの意図を実現させるため、アジアの兄弟意識を醸成した。インドネシアにおいて日本は、自らを『長兄』と呼び、太平洋戦争を『大東亜戦争』と喧伝、『日本はアジアの光、日本はアジアの守護者、日本はアジアの指導者』という標語を用いた3A運動を展開した。日本は軍事・産業国として、産業および軍事兵器の原料資源を大量に必要としていた。豊富な天然資源に恵まれたインドネシアは、日本の需要を十分に満たしていた。アジア地域に見られた西洋帝国主義に対する反感が、オランダに支配されたインドネシアの早急な占領を日本に促した。こうした反感は日本の日露戦争での勝利に起因していた。インドネシアを含むアジアを支配することで、日本は西洋帝国主義の影響を食い止める意図があった。日本はインドネシアを産業や軍事兵器に関する素材原料の供給源にした。インドネシア諸島に侵攻した際、日本がまず先に標的としたのは、東カリマンタンのタラカンやバリックパパン、南スマトラのパレンバンなど石油資源が豊富な地域であった。」なんとも客観的な教科書の記述だと思います。日本ではこのような歴史の詳細は教科書からは消されています。

日本では若い労働力がどんどん減ってきており、農業や建設業は労働力不足にあえいでおり、運送や製造、サービス業の労働者確保も深刻になってきています。少子高齢化社会に入った日本の産業&社会が、アジアの若い人たちに助けてもらわなければやっていけない時代がすぐそこまできています。インドネシアで、日本が好きで日本語を勉強するこんな若者がいてくれるということは、なんともありがたいことです。研修生の受け入れも含めて、このような人と人との顔を合わせた交流が次のアジアの時代をつくってくれる、そんなことを考えながら、帰りにビマさん、バガスさんと長浜ラーメンを食べて帰りました。