九州産直クラブ 社長のblog

九州産直クラブ社長 吉田登志夫の公式ブログです。九州産直クラブの商品や生産者、九州の野菜、肉、魚などの内容や、イギリスのオーガニック市場、フェアトレードなど、様々な情報をお届けします。

藤田忠君、追悼。

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ドリームグループ(オーガニック九州産直クラブ/ナチュラナチュラル/ロンドンナチュラルグループ)代表の吉田登志夫です。

2019年11月23日、僕がロンドン出張から戻った翌日、西南大学から地域生協づくりと社会の改革を目指して時空を共にした仲間が逝った。

藤田忠、享年66歳。

葬儀は彼の息子さんと娘さんとその親族の方々が準備された。

葬儀では弔辞を読ませていただいた。

 

友のご逝去に際し、弔辞を読ませていただきます。

⬛️悲報は西南大学中国研究会の仲間の朝長君が知らせてくれた。あの頃の西南中国研究会の部室は「造反有理」などの落書きとタバコの吸殻で散らかってはいたが、僕らの「安息の場所」であった。もしかしたら、そこは君や先に逝った本畑(葉室麟)や佐々木敏雄などが一番帰りたい場所であるのかもしれない。朝長君は君と同時期にグリーンコープを退職し、その後、ディサービスや産直クラブの仕事を手伝ってくれたりもしてくれたが、大きな病気を経て、今は日々を淡々と送っている。君と最後に飲んだのも朝長と3人だったね。

⬛️藤田、君の事で思い出すのは、やはり青春の多感な時期を共に過ごした西南大学時代のこと。当時はいわゆる大学闘争/全共闘時代の最後の季節で、折々のデモや集会を行うに際して、君はあの大きな目をギョロリと見開いて、「ドジオさん、その方針は違うのではないか?」とよく異議をはさんでいた。当時西南大学活動家グループのリーダーであった僕だったけど、僕の優柔不断な方針対して、君はいつも原理原則を対峙させていた。

⬛️君と初めて会ったのは、1972年初夏の西南大学キャンパス。僕が赤いマフラーを首に引っ掛け、大きな立て看板の前で「産学協同/大学管理体制の打破」を訴えてアジテーションをしていると、君は「のっそり」と近づいてきて、「僕も一緒にやるよ」と声をかけた。後で聞くと藤田は北九州では有名な反戦高校生活動家だった。以来、約4年間、よく意見の違いを言いあった。僕は「地区ソビエト樹立論」、君は「レーニン主義の党建設論」が好きだった。が、君はいつも最後は論を譲った。決して正論で押しきらず、最後はみんなに譲った。今思えば、それはいつも君の根っこにあった「優しさ」がそうさせていたのだろうと思う。いや、論の正しさを競い合っても、それで相手を圧倒する事のむなしさを君は知っていたのかもしれない。

⬛️君はいつもよく本を読んでいた、新聞も隅から隅までよく読んでいた。とくに「政治思想」とは仲間の誰よりも真摯に向き合い、マルクス毛沢東から吉本隆明まで幅広く、かつ深く読んでいたように思う。適当で、浮気性で、朝令暮改の僕とは対照的で、いつもじっと考えていた君は、最期は何を思っていたのかを聞きたい気がするが、それはもう叶わない。

⬛️「悶々とした大学」を去るにあたって、多くの活動家仲間がその頃流行った「大学から地域へ」という雰囲気の流れで地域生活協同組合づくりへと入っていったが、君は「労働者として生きる」と言ったかどうかは知らないが、大きな漬物会社に就職した。大学を去るときの君が何を思っていたかはわからないが、安易に「職業としての生協」を選ぶ事にある種の「活動家としての矜持」があったのだろうと思う。後に、地域生協でうろうろしていた僕に「オレも合流するよ」と言って、生協に入って来てくれたが、君はやはり最後まで生協は好きではなかったようだった。

⬛️シャイで私生活は滅多に語らない君だったが、最初の職場で知りあった彼女を、「結婚しようと思う」と紹介してくれた。その時は「(堅物の)藤田も結婚するんだ」と嬉しかった。最初の娘さんが生まれた時も飲んだ、僕は知らなかったがその時ウチの奥さんに「ユキちゃんの名前をもらったよ」と君は言ったらしい。数十年を経て、奥さんが亡くなった時も、僕を呼び出してくれて静かに酒を飲んだ。

最後に呼び出されたのは数年前だ、「言っておかなければいけない事がある」と春吉の福喜で飲んだ。「あやまらなければいけない事がある、オレは、大学に入ったのは党派の指令だったんだ。入ってからも党派に西南の動きをレポートをしていた。これだけはドジオに言っておかなければ」と酒を飲んだ。当時藤田は「僕らが好きではなかった党派の非公然同盟員」であった、という事が藤田の長年の重しとしてあっただったのだろう。

ヒトには、誰にも言わず、墓場まで持っていかなければいけない事もある。でも、その前にナマリを吐き出してくれて良かったと思った。そんな事はどうでもいい、僕たちはそんな律儀な藤田が好きだったのだ。

⬛️西南共闘の仲間も、何人か鬼籍に入った。僕らもそういう歳だ。

藤田、次はいつ会えるかはわからないが、会える場所はわかっている。

あの場所で、また、静かに酒を飲んで、酔っぱらったら「インターナショナル」を歌おう。